◆10月23日 ガラン沢 晴れ S田務

起床6:10 出発7:10 小倉口(舗装終点)駐車 7:30馬止め1360m(設営)8:30~9:00 ガラン谷取水口 9:30 峠の沢手前(昼食)雨水池(ゴフク池)12:40~55 本谷13:15~30 巻き路(小倉口方面)13:40 惣吉地蔵14:00 馬止め15:00 就寝21:00

林道のゲート手前に駐車して、歩きだす。駐車地点にテントを張るかもしれないと言うことだったので、軽量化はしていない。20㎏ほどの荷物が、肩に食い込む。分岐点となる馬止めからわずかに左に入ったところに、小さな広場がある。ここにテントを張り、食糧などをデポして出発する。

ガラン沢への近道ルートは、そのテン場地点から細い山道に入るのが正しかった。けれども誰もそれには気づかす、林道をどんどん進んでどんづまりから沢に急下降する。降りた先が、取水口。

その先の滝の巻き道で50mザイルを張る。ここからのガラン沢遡行は難しくはないが、巨岩の乗っ越しなどに手こずる。予想より時間がかかったので、ピーコック遭難碑の見学は省略して、池の沢からごふく池に向かった。山中にただずむ静かな池。神秘的で幽玄な感じがした。

本流へ戻り、帰りは本来、たどる予定だった近道ルートをたどって、テント場にどんぴしゃっと出た。H明さん、T山さんらのGPSの威力はすごい。夜はたき火を囲んで大宴会。その話の続きは、I井さんにバトンタッチ。

 

◆10月24日 大高山 曇り I井T史

起床4:10 出発6:10 一つ石1825m7:40 オッタテ峠1880m8:05 小高山1937m8:30大高山2080m9:20~10:10 五三郎小屋分岐10:30~11:00 一つ石12:00~12:15馬止め(テント撤収)12:55~13:20 小倉口14:00 六合道の駅(くつろぎの湯)15:00~15:45解散

2年ぶりの豪快な焚き火、腰痛で水汲みも薪集めもできずに最後は独り占め。いつしかメンバーはみなテントの中。見上げれば満月は頂天に。これじゃぁ、夜の更けていくのがもったいないよなぁ・・と、一人で贅沢な晩餐後の余韻を楽しんでいました。「今日のゴフク池(雨水池)は神秘的だったなぁ。湖面はひっそりと晩秋の趣をたたえ、黄金色にきらめいていた。」「それにしても・・」想像が膨らむにつれ、度の強いアルコールが気持よく喉を伝わっていく。「ガサゴソ、ガサゴソ・・」「あれ?なにか外で音がしている」A子さんの声に、自分がまだ寝ていないことに気づき、まるで油絵の世界のような、それでも全体の形が整ったカラフルな色のこんもりとした自然の森。眼下の一角には、白根のピークから続く深い森に包まれるように草津の町の建物がたたずんで見える。周囲に人工物はどこにも見えない。素晴らしい秋景色を堪能しました。

幾度となく草津の湯にお世話になったけれど、こんな形で草津の位置関係を確認したのは初めてのこと。視線を上げると、限りなく続く浅間や榛名のその向こうまで続く山並み。風もなく、時どき薄日の差す気持ちの良い登行が続く。間もなく、後ろからT山さんの声。振り向くと、なぜかキノコの山。聞けばヌメリスギタケという。急いでテントにもぐり込んだ。

大高山頂の稜線へは、どこまでも続く笹原の藪だが、登山コースだけがきれいに刈り払われていました。おかげさまで快適に通過することができました。急な下りも、荷物がないので快適に。キノコ探しの時だけは腰痛を忘れてしまいます。

今回も隠し味の効いた楽しい企画、ありがとうございました。

 

◆歴史を辿る S田務

<惣吉地蔵>

ガラン沢に向かう山道の途中にあるのが、惣吉地蔵。大正時代に、狩人の本多惣吉がラン沢の黒ゼンの滝で墜落して負傷。身動きできなくなった惣吉は持っていた銃で自害する。しかし、その時連れていた飼い犬は、里まで下って主人の危機を知らせる。しかし、村人の到着はそれに間に合わなかった。今は小さなお地蔵さんと犬の像がある。その顔は、少し悲しげだ。

<ガラン温泉>

ガラン沢の中流から左岸の支流をたどったところに、ガラン温泉がある。毎分の噴出量は18リットル、水温41度。かつては浴槽があり、入ることができたが、浴槽が壊れ、源泉も細くなってしまった。今は入浴不可。

<ピーコック碑>

温泉を分ける沢から本流を少したどると、ピーコック碑がある。ここは英国人のピーコック氏と案内役の日本人一人が1938年1月、ツアースキー中にガラン沢に迷い込み遭難死したところだ。「六合村周辺の山々と渓谷 自然(じねん)」HPによると、その遭難を巡ってミステリアスな情報が錯綜し、国際問題となり一時騒然となったとある。ガラン沢周辺には鉄鉱石や硫黄の採取できる鉱山が多くあり、ピーコック氏はそれを調査するスパイだったという推測もあるという。なお案内人だった日本人の死体は発見されたが、ピーコック氏の死体は今も、見つからないまま。

<天狗平>

大高山の手前にある五三郎小屋との分岐の東に、小さな池をもつ草原がある。ここはかつて、御殿(ミドノ)平、細野平とも呼ばれた。今からはるか昔、木曽義仲が義経に攻められ、都を追われる。その家来だった細野三友之助らは、義仲の子を宿したお蘭を連れて落ちのびる。途中で多くの仲間が命を落とすが、細野らはからくも白砂川の渓谷に逃れ、山奥に館を建てた。館の名前は細野氏館、別名は大高山城。場所は、この天狗平である。御殿(ミドノ)平、細野平という名前は、その時の名残だ。このあたりには、城壁跡と思われる石垣や五輪塔が今も残る。また、その手前にあるオッタテ峠は、御館がその語源である。

なお、20年ほど前までは、五三郎小屋との分岐から天狗平を経て里に下る道があった。また戦後まもなくまでは、この道は職漁師が岩魚を草津温泉まで運ん「岩魚道」でもあった。今は強烈な笹薮に覆われているため、分岐から天狗平まで往復で、2時間かかる。私たちは藪の濃さにめげ、途中で引き返した。H明さん一人だけは、行きたそうだった。

<六合(くに)村>

明治33年に、この地域にあった六つの大字が合併して六合村ができた。名前はそれに由来する。また、六合は、東西南北と天地の六面を意味していて支配の範囲を示す国(くに)を意味する。六合村を「くにむら」と読むのは、そのため。